沖縄本島南部にある糸満市は、沖縄戦で多くの命が奪われた場所。そのためこのエリアには過去の悲惨な戦争の記憶を忘れないことと平和を願う想いから、たくさんの戦没者慰霊碑があります。

平和祈念公園

沖縄戦終焉の地である糸満市摩文仁にあるのが平和祈念公園です。公園内には「平和祈念資料館」「平和祈念象」「平和の礎」「韓国人慰霊塔」「平和祈念堂」などがあります。

園内には教員を目指していた沖縄師範学校男子部の生徒たちを慰霊するために立てられた「沖縄師範健児之搭」や、沖縄県立工業学校の生徒たち・教職員の慰霊塔「沖縄工業健児之搭」、さらに各都道府県出身者のための慰霊碑などがあります。

南北之搭

糸満市真栄平地区にあります。真栄平地区では、糸満エリアの中でも最も悲惨な戦場となった場所といわれています。戦闘が始まる前の真栄平地区の人口は900人でしたが、その中で沖縄戦を生き抜くことが出来たのはわずかに300人。人口の3分の1しか生き残ることが出来なかったのです。

そんな南北之搭には真栄平区の区民や他の地域からの避難民、軍人、身元不明者などの遺骨が数千柱納められています。当初は「真栄平納骨堂」として建立されていましたが、昭和41年に現在の「南北之搭」として改築されました。

毎年6月23日には、今でも慰霊祭が行われています。

和魂之塔

糸満市大里地区にあります。ここは沖縄戦最後の激戦地となった場所で、終戦直後は人の姿だけでなく地上にあるすべての物が破壊されつくされていたといいます。あたり一面には区民や他の地域からの避難民のほかに多くの日米軍人の遺体が散乱していました。そのためすべての遺骨を拾い集め、一か所に納骨しました。それが和魂の塔のはじまりです。

和魂の搭では、この地域で亡くなったすべての人の遺骨を納骨しています。ですから敵国である米国軍人の遺骨も納められ他の戦没者と共に慰霊されています。その後、納骨堂のあった場所に「永久に戦争が起こりませんように」との願いを込めて昭和29年に慰霊碑「和魂之搭」を建立しました。

白梅之搭

旧・県立第二高等女学校の4年生たちによって編成された「白梅学徒看護隊」に動員され亡くなった女学生たちの鎮魂のための慰霊碑です。

白梅隊員たちは第1野戦病院・衛生看護隊に補助看護婦として配置され、傷病兵の看護にあたっていました。戦況が激化する中で突如解散命令が下されると、彼女たちはバラバラになります。

解散後も傷病兵たちの看護にあたっていた学生たちは、米軍の猛攻を受け亡くなりました。また避難の道を選んだ学生たちも戦禍の中をさまようだけで、ほとんどの学生たちが命を落としています。そんな彼女たちの遺体が最も多く見つかった場所に白梅之搭は立っています。

慰霊碑には「うら若き命惜しますたたかいてつらなり果てし御霊とおとし」という歌碑が刻印されています。

山形の塔

糸満市真栄里にある山形県の慰霊碑です。慰霊碑には山形県出身者4万余柱が祀られています。収められている4万余柱の中で沖縄戦の戦没者遺骨は776柱で、そのほかの遺骨は海外諸地域で亡くなった山形県出身者のものとされています。

慰霊碑は1965年に建立され、慰霊碑のわきには2体の観音像が納められた観音堂があります。

沖縄戦の戦没慰霊碑が抱える厳しい現実

今回ここで紹介したのは、沖縄戦終焉の地となった糸満市の慰霊碑のほんの一部です。どの慰霊碑ももともとは終戦後に見つかった遺骨を納めた場所であり、その後納骨堂を経て慰霊碑となったものが多いです。

でも今そんな慰霊碑には厳しい現実が突き付けられています。戦後70年以上を経た今、戦争体験者の高齢化が進んでいます。慰霊祭を行っても高齢を理由に参加することが出来ない参加者・遺族も増え、さらに資金的にもそれぞれの慰霊碑の維持管理が難しくなってきています。

また碑文のない慰霊碑もあります。碑文はその場所にどんな願いを込めて慰霊碑を建てたのかを知る貴重な資料になりますが、碑文のない慰霊碑にはそのことを知る術がありません。こうした慰霊碑はいつしか存在そのものが忘れ去られ、慰霊碑もいつかは時と共に自然に戻っていくのかもしれません。

平和な時代を生きる私たちにとってこうした現実に何が出来るかはわかりません。でも少しでも慰霊碑の存在とその厳しい現状を知るということで、かつてその場所で一身に鎮魂のために手を合わせていた人の想いを次の世代に引き継ぐ何かが出来るような気がします。

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